題無しじゃ!

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あさイチ プレミアムトーク「松山ケンイチ」(2015年3月20日)文字起こし その2

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(有)
次のお題にいきたいと思いますけど、紅白誕生秘話、いっていいですか。これ、昭和20年、先ほどお話ありましたけど、終戦からわずか4か月後の大みそか「紅白歌合戦」の前身となった番組が放送されてるんですが、その誕生秘話を描いた松山さん主演のドラマなんです。「紅白が生まれた日」というタイトルなんですが、明日放送なんですが、内容を一部ご紹介します。
(有)
昭和20年9月。出征先から東京に帰ってきた新藤達也。ラジオのディレクターである新藤は焼け残った放送会館を訪れます。この日はGHQによって放送会館が接収される日でした。建物の半分が接収され、GHQの指導の下、番組作りが始められることになりました。戦争で傷ついた人々を勇気づける音楽番組を作りたい。新藤が出した企画とは…。出演交渉に奔走する新藤たち。心の中に負った傷から「リンゴの唄」を歌えないという並木路子。しかし粘り強く説得を続けます。そして、ようやく放送当日を迎えるのですが…。
(井)
明日夜9時ということなんですが、いち早く拝見しました。いやあ、面白かったですね。これは1時間?
(松)
73分という。
(井)
2時間かなあと、2時間見たかった。
(松)
僕も2時間やりたかったですね。現場が楽しかったんですよ。
(井)
あっという間だったけどすごく中身が濃くて非常にいろいろ勉強になりました。当たり前のようにやっていたことが、この時代にGHQが来て指導されたことだったんだって。いまだにやっているじゃない、キュー!とか。
(松)
その、実際にラジオの中継というか、やっているところにお邪魔させていただいたりとか、それこそ「紅白歌合戦」のリハーサルにもお邪魔させていただいて。
(有)
去年ね、やってたら、松山ケンイチさん通られますと言われて、総合司会だから、松山ケンイチさんは何で出るんだっけって思って、ちょっと混乱したんですけど見学にいらしたんですよね。
(松)
そんなこと言われたんですか。僕、絶対にばれないように、普通に自前のスーツ着て、札を付けて、普通に会社員みたいな感じで、スタッフみたいにして入っていたんですけど。
(有)
うちのスタッフが言ってました。何だろう?審査員だった?みたいな。
(松)
絶対にバレないように行ったんですけど。
(有)
質問も来てまして、「今回紅白の裏側を見学されて、視聴者として見ていた時や審査員としてご出演された時と比べて紅白への印象が変わったり、新たな発見があったりしましたか」ということなんですが、見学にいらっしゃったのは役作りでいらっしゃった…。
(松)
どういう感じで…その、裏側の人たちを見たかったんですよね。サブにも入って。
(有)
副調整室ですね。それこそ、キューをいうところ。
(松)
なかなか見られないじゃないですか。すごいおもしろかったんですよ。なにか独特の空気で、そのディレクターの方に話を聞いていると、怒鳴ったりとか騒がしかったりとかしないんですかと聞いたら、「午前中までは怒鳴っていた。今は落ち着いたかな」って。すごい皆静かになっているんですけど、こういう人たちが一気に動きだしたら、きっとすごいことになるんだなとか。何人もいらっしゃるんですよね。カメラも50個ぐらい…。
(有)
そんなには無いですけど(笑)
(井)
その第1回目、しかもテレビじゃなくラジオだったということですけど、ああそうだったんだなと本当に勉強になりましたね。
(松)
生なので「押し」「巻き」とか、今回は出演者の方たちが来れなかったというエピソードもあるんで、そういう中でどういうふうにやりくりしていくのか。しかも、それも変更するのは全部許可がいるんです。
(井)
アメリカに対して許可が。
(松)
そういうのも、どうしてくんだろうと。すごい参考になったというか、臨機応変に対応していく皆さんの姿っていうのはすごく勉強になりましたね。
(井)
当たり前のように、大みそかには僕ら見てましたけど、でも当たり前じゃないところからスタートして勝ち取ってきた感じが非常に熱かったです。
(有)
あの、副調整室って、今おっしゃいましたけど、何か生放送の前って独特の熱があるんですよ、こう、グワッと、それこそ「キュー!」みたいな、あの辺、いつも出る側にいらっしゃるのに、裏側の空気というのはよく作られたなと思って。
(松)
いやあ、でも、監督とかも、きっとすごい勉強していたんでしょうね。一緒にラジオを見に行ったりとか、でも今のラジオってちょっと違ってモニターが目の前にあって、紙で文字を書いて合図をするんですけど。
(井)
そういうところまで見てきたんですね。
(松)
この、キュー!のしかた、近藤さんってすごく変わった方だと。
(有)
実在の。同じ昭和20年の紅白音楽時代の企画制作に当たった実在のNHKのディレクター近藤積さん。
(松)
近藤さんはすごく変わった方で、キューもすごく独特だったって聞いています。
(井)
それは誰から聞いたんですか。
(松)
監督がいろんな方から聞いて、キューの、この指の先っちょに豆電球付けてたりもしたみたいな。
(井)
めちゃくちゃ面白いじゃないですか。
(松)
そういう逸話がある人なんですよ。
(井)
線を通して?
(松)
たぶんそうなんでしょうね。スイッチとかもこっちで持ってやってたんでしょうね。
(井)
最高ですね。
(松)
いろいろ考えてたんですけど、その人らしいキューってどういうんだと。すごい悩んでたんですけど、結果的には派手なキューに…。
(井)
日本人としては、そんなにやり慣れていないですよね。
(有)
ちょっと猫背でうつむき加減で、まばたきの回数が多い感じと、あと、いつもはしゃべらないんだけど、時々、ガッというのが、いるいる、そういうディレクターいたいたみたいな。あるあるだったんですけど、あれはどういうイメージで。
(松)
とても変わった方だったという話を聞いて、そういうものをちゃんと表現しないと意味がないので、終戦後、出征して帰ってきたときの敗北感とか、不安な気持ち、気分の落ち込み、ストレスとか、そういうものをまばたきとかで表現したいなと思っていましたし、その猫背でボソボソしゃべっている感じは、映像資料で紅白の特別番組みたいなものがありまして、そのときに近藤さんが出られてた映像があったんですよ。で、「紅白はどのようにして出来上がったんでしょうか」と聞かれるんですけれど、ボソボソと何しゃべってるのか分からないんですよ。全然聞こえてこないんですよ。これか、と思って、そのまま参考にさせていただきましたね。
(井)
知っている人は、ああこれこれと思ったかもしれないですね。
(有)
そのちょっと変わったという近藤さんとおっしゃいましたけれども、実は近藤さまの奥様が、美佐子さんとおっしゃるんですが、都内で現在89歳ということで、伺ってきました。
(有)
「主人は家では仕事のことはあまり多くを語る人ではありませんでしたが、若いころなどは、いろいろアイデアが湧いてくるんだ、などと私にもよく話をするなど、心の中には仕事への熱い情熱を持っている人でした。主人は松山ケンイチさんのような美男子ではありませんでしたが、大河ドラマ平清盛」で主演するなど演技力のある松山さんが演じてくれることは本当にうれしく思っています」
(松)
ありがとうございます。
(井)
イデアの1つが豆電球でもあったかもしれませんね。これ付けてみようかなみたいな。相手が分かりやすいというのもあったのかもしれませんね。光っていたら。
(有)
熱い思いが、たぎっていらっしゃる感じが、ドラマとシンクロしますけれどもね。
(松)
当時やっぱり男女に分かれて競うっていうことだったり、歌手に勝ち負けをつけるっていう考え方はなかったと思いますし、このドラマでもありますけれど、企画を話したときに皆ポカーンとしているんですよね。その中で、それでも近藤さんは、これだって言って、皆を巻き込んで企画を作っていくという、その気持ちの強さだったり、勇気というのは素晴らしいなと思うし、そこは一番僕が伝えたいメッセージというかテーマでもあるんですよね。紅白の、結局少しでも今までの不安な気持ちとか、沈んだ空気感を一時でも忘れて、楽しい気持ちで次の年を迎えたいっていうのが、根底にあったというテーマなんですよね「紅白歌合戦」が作られるきっかけというのは。それって今でもやっぱりそういうのはあると思うんですよね。だからそれほど普遍的な部分を作ってきた人なんだなと思って、それを知るとやっぱりすごい企画だなと思いますし、でも勇気がいったことだったろうなと思います。
(井)
それは本当に伝わってきました。今お話しされたことは。
(有)
松山さん、本当にいろんな役を演じていらっしゃるんですが、その役者さんとしてはどんな感じなのかというのを、実は大河ドラマ平清盛」で父親役を演じた、あの方に聞いてきたんですよ。
<VTR>
中井貴一さん
「プロフェッショナルとしての役者というものの素養っていうのを、すごく強く持ってる俳優さんだと思います。感情だけを表に出す芝居みたいなものが、良しという人もいるんですよ。でも、どこかに感情っていうものがコントロールされていることが、芝居っていうのはすごく大切なことのような気がするんですよね。松山くんていうのは、それが確実にある人なんですよね。だから、ガーッと集中しているようでも、必ずどこかに客観的に自分を見ている自分を持ってる。それはあの、立ち回りをしたときに分かるんですよね。立ち回りって、いかに迫力があるように見せていくか、いかに力が入っていないかってことが肝要なんですよ。で、清盛のときに、父親にガーッとつかみかかってくるシーンがあるんですけれども、ものすごい勢いで彼は僕のところに飛んでくるんですけど…
平清盛曼荼羅のシーン)
バーンと組んだときに、力が入ってないんですよ。これってそう簡単にできることじゃないですよね。でも、感情はそこにほとばしっている。だから迫力のある立ち回りがそこに生まれてくる。だからそれは芝居においても同じ事で、本当にいい塩梅に、芝居の力の抜き方を知ってると言うんですかね。彼を見ていると、その柔らかさを感じるというのかな。監督は松山くんに「あなたならこれ出来るでしょう」って提案をしたくなるタイプの俳優さんなんじゃないかなというふうに思いますね」
(松)
いやあ、本当にありがたいですね。でも今ちょっと貴一さんの話を聞いて、僕も自分で分かってなかった部分も、あったんですね、そこは。なんですけど、もしかしたらそれは貴一さんと一緒にやらせていただいたからこそできたかもしれないなと思ったんですよね。貴一さんのことを本当に信頼しているというか、信じているというか。今回「平清盛」も、出演させていただくっていうことを、どうしようかって悩んでいたんですよね。前も話したかもしれないんですけど、実は清盛の役でオファーがあったわけじゃないんです最初。これ言ってなかったかもしれませんけれど、違う役だったんですよ。それが清盛になったんですよ。そのときに、僕が大河の主役がやれる人間ではないんじゃないかと思っててそのとき。それほど重い荷物を背負っていけるのだろうかと、すごく悩んでいて一番最初に中井貴一さんに話をしたんです。
(井)
どんな話をしたんですか?
(松)
自分はまだまだ経験値も技術的にも、何もかもが、人間的にもまだ至っていない部分があるので、今、きているんですけれど、これは出来るんでしょうか、やっていいんでしょうか、っていうふうに話をしたら、今まで大河ドラマの主役をやってきた人は50人しかいない。その50人に選ばれるということはすごく光栄なことだし、とにかくそういうチャンスがあるんだったらまず飛び込んでみたほうがいいんじゃないか、やってみたほうがいいんじゃないかと、やりなよ、って言ってくれたんですよ。絶対やったほうがいいよと言ってくれて。その言葉で僕は「清盛」に挑戦してみようというふうに思ったんです。
(井)
だから最初、始まる前から信頼していた人だったんですね。
(松)
それで父親役が中井貴一さんと決まったんです。
(井)
決まっていなかったの?
(松)
決まっていなかったんです。
(井)
すごいですね、それは。
(松)
なので、やっぱりものすごい信頼が僕の中にあった。だから全部飛び込めていけたというか、自分を全部投げていけたのはやっぱり中井貴一さんだったからかもしれないですね。やっぱり思うんですけど、信頼っていか、その現場、その監督、共演者、自分自身、全部信じることができなければ、役になることってできないと思うんですよね。自分を捨てて役になるということ。それがこの「平清盛」では貴一さんがいたことによってできたと思いますし、1年間という長い時間をかけて少しずつ信じる…なかなか僕、人を信じることできないし、自分自身も信じること難しいと思うんですよね、やっぱりやったことがないことなので、でも少しずつみんなで信頼関係を作っていって、最後には僕自身思ってもみなかった方向にいけたというか、清盛自身を思ってみないところで演じることができたというのが、やっぱりみんなのことを信じることができたからだし、そういう信頼関係がある、ちゃんとした、きちっとした現場があったからこそなんだろうなと思ったんですよね。
(井)
1年以上続くとなると、やっぱり体力的にもそうだけれど精神的にも相当、それずっと荷物を背負いながら走っていくみたいなところがあるけども。
(松)
だから「清盛」って一人で演じてわけじゃないんだなと思うんですよね。現場の方たちもそうだし、支えてくれた家族とか、そのとき僕の弟が身の回りのことやってくれました。だから感謝していますね。
(有)
平清盛」は本当にすばらしかったですとファンの方からいただいています。また後ほどご紹介しますが、その前にもう1つお題のほうもいきたいと思います。こちらの「うなだれる少年」でございますね。
(松)
それね、いちばん見られたくないところなんです。
(有)
これは見てください。われわれが局の垣根を超えて発掘したうえに、お願いして取り寄せたVTRなんです。16歳のときに出た大手芸能プロダクション主催のオーディションの貴重な映像でございます。
<VTR>
(松)
うわあ、本当にあるこれ。僕見たことないですよ。
(井)
選ばれた瞬間なのに縮こまっていますね。
(有)
そして1週間後、さっそく初仕事。大手企業のポスター撮影の様子です。
(井)
あれ、選ばれた瞬間だから、普通だと「いえーい」みたいな、「よっしゃ」みたいのあるじゃないですか。
(松)
今オーディションに受かったら「うぇーい!」ってなりますけど。
(井)
ハハハ!あのときはなんで?
(松)
あのときは恥ずかしかったんでしょうね。テレビで放送されてるというので、僕もう同級生とかに絶対見られてると思ったので、とにかくバレないようにしようと思って…
(有)
バレるでしょ!
(松)
ぎりぎりまで顔を下に向けていたんです。
(井)
そういう意味で下を向いていたの?
(松)
見られたくなかったんです。言っていなかったので、仲のいい友達にしか言っていなかったので、恥ずかしかったんですよ。
(有)
1万6572人の中から、一番魅力的だということで選ばれたときの気持ちを覚えていますか。
(松)
まさか、最終選考にまで残るということ自体も自分の中では信じられなかったんですよね。このオーディションを受けるきっかけっていうのは東京に行ってみたかったんですよね。東京っていうものにすごく憧れていて。住んでみたいなと。
(有)
それだけで来たのに受かっちゃったみたいな感じで。
(松)
モデルとかというのも、出たらすごい楽しそうだなと思っていましたけれど、まさか自分がそういうふうになると思ってなかったのでは訳が分かってないんですよね、そのとき。
(井)
本当にぼう然としている感じだったんですね。
(有)
実は、当時オーディションの審査員だった雑誌編集者の中村純子さんにお話を伺っているんですが、「面接だというのに、ずっと下を向いたままだったので、審査員の1人が前髪を上げ顔を見せるように促しました。そして松山さんが顔を上げたとき会場の空気が一気に変わりました。吸い込まれるような眼光、独特のオーラがありました」ということなんですね。さらにポスター写真を撮ったカメラマンの若木信吾さんは「ほかのモデルにはない、光るものを感じたことをよく覚えています。うまく言えないのですが、正面を向く何か強いもの。当時、僕は木村拓哉さんや浅野忠信さんもよく撮らせてもらっていました。松山君には同じような、型にはまらない独自のものを感じました」。
(松)
ありがとうございます。
(井)
選ばれて、何どういうこと、と思いながらも、どんどん事は進んでいくわけじゃないですか。
(松)
そうですね、そのときに、3月、今ぐらいでしたね、オーディションを受けて、高校2年生が始まった、あっちで。1学期終わらせてこっちに来てくれと言われたんですよね。高校3年生まであっちにいられるもんだと思ってたんです。修学旅行も楽しんで、青春時代を終えてからこっちに来て仕事をするもんだと思ってたんですけど。来てくれって言われて、まさかそういうふうになると思ってなかったので。
(井)
住みたいとは思ってたけど。
(松)
順番ちょっと違くなっちゃったみたいな。
(井)
で、出てきたんですか。
(松)
行けよ、と親に言われて。
(井)
送り出してくれたんですね、気持ちよく。それから、これは大変なことになってきた、ちゃんとやんなきゃと思ったのはどれぐらいだったんですか。
(松)
それでもやっぱり仕事というものがどういうものなのか分かってないですから、それでも何となく、雑誌の撮影とかも入ってきてて、どうすればいいか分からないですよね。仕事をしているという、自覚みたいなものも、まだまだ全然持てていませんでしたし。ひどいときは、撮影しているんですけれど、いつの間にか。
(井)
寝ちゃってる寝ちゃってる。
(松)
あれ、まずいな、何やってるんだと思ったときもありました。
(井)
それぐらいよく分からないまま、どんどん進んでいってしまったみたいな感じなんでしょうね。
(つづく)